ご紹介のお礼に山田裕人の自宅にご招待した時の写真
日本の庶民の家は初めてという事でおでんのおもてなしをしたことが印象に残っている。 1989年
左から、山田禎子会長、サー・ティモシー、山田裕人

①基本デザイナーを探す

家族で目指したのは本物の英国庭園創りであった。 それには基本デザインを導いてくれるデザイナーが必要であった。ありとあらゆる努力をしたが、なかなか接点がなかった。 そんなある日、山田裕人の学生時代の友人から英国大使館の二等書記官であったティモシー・ヒッチン氏を紹介された。彼は、日本初の英国庭園プロジェクトについて興味をもってくれて王立園芸協会の総裁に手紙を書いてくれた。
ヒッチン氏は、後に解ったが英国で有名な海軍提督のお孫さんであった。彼は、その後、駐日英国大使として戻ってこられた。現在はオックスフォードのカレッジの学長となっている。

②王立園芸協会(RHS)

王立園芸協会から待望の手紙の返事が来た。
デザイナーを3人紹介してくださった。面接に家族でロンドンへ出かけることになった。
王立園芸協会のアンブローズ氏が紹介して下さった方々と面会をした。ところが、山田禎子は人選には独特の見識を持っている人で紹介された3人では役不足だと、どんなに説得しても言い張って譲らなかった。そこで、やむなく引き返すこととなった。
しかし、そのうちの一人が植物を輸入する際のキーパーソンとなった。英王室御用達の種苗会社ヒリア・ナーサリーのプランツマンだった。

③ジョン・ブルックス氏との出会い

英国で求めた『The Garden Book』というジョン・ブルックス氏の 著書が素晴らしい内容であった。恐る恐る著者に東京から電話をして面接をすることになった。数か月後、2度目の面接をロンドンでした。合わせて他の方々にも面接し、最後に入ってきた人がジョン・ブルックス氏であった。 家族全員が一瞬にて一致してインスピレーションを得た。明るさと自信に溢れた様子に魅了された。サザンプトンにある彼がオーナーであるデマンズガーデンへ訪ねることになった。その庭は造形的な植物とエスプリに溢れたデザインの庭であった。その場で基本デザインをお願いし来日の日取りを決めた。 1989年9月プランツマンとしてデニス・ウッドランド氏も来日する事になった。 こうして具体的にプロジェクトが進み、ジョン・ブルックス氏との長い交流が始まった。

④植物検疫

1989年9月デニス・ウッドランド氏がジョン・ブルックス氏と相談して植物の図面を作ると同時に翌年春に届くように植物手配をした。 1990年英国大使館主催のUK90イベントに参加のオープンに向けて2人のイギリス人ガーデナーが来日した。 2人のガーデナーは図面に沿って準備を始めた。山田裕人は植物手配の為、検疫所を訪れた。驚いたことに、その輸入は史上最大の新植物の輸入であったと係官に告げられた。農水省のみならず厚生省まで許可をもらう事となった。 晴海埠頭にいよいよ到着することになった。大勢の検疫官が待ち受けていた。大半の植物が無事に赤道を通過して生きている事が確認できたという一報に安堵した。数日を過ぎても入国の許可が出なかった。 輸入不許可の害虫が見つかった為だった。その為、燻蒸処理を行ったが許可に至らなかった。 植物が手に入らなければUK90オープニングイベントとして進めているプロジェクトが台無しになる。長い手紙をFAXでヒリア社に送って説明したが帰ってきた返事は『イギリス人は長い手紙を読まない』との事だった。春に新規の発注をするともう間に合わない。検疫官から『虫が入ってくることで日本の農業を壊すことになる』の一言を聞いて元から公の為に進めた事業なので諦める事とした。コンテナはサザンプトンへ戻っていった。そんなわけで本来大忙しのはずのガーデナーを連れて日本中、植物リストを片手に植物の入手に回ったが一向に手に入らなかった。結局、日本の園芸界の方に聞くと『俺たちはプロなのでそんなにたくさんの植物を輸入しない』と諭された。 結果、長い年月をかけてたくさんの植物を多くの失敗を重ねながら入れてくることになった。
ガーデナーを連れて日本中の老舗ナーサリーを訪ね、植物をわずかずつ手に入れた。そんな中、ケイ山田が埼玉でアジサイのハイドランジア・アナベルと出会い日本で初めて庭園で使うこととなった。

⑤水の問題

インフラでも多くの問題が起こった。
水の水量が水道の限界を超えた。初代のガーデナー達から水の供給を切実に訴えられた。しかし井戸水を掘るには地域住民の方の全員の合意が必要だった。様々な努力を経て合意を得て、ようやく掘削をし、水が出た瞬間だった。

⑥石工とガーデナーの喧嘩

のちに植栽とは別に外構は本物を目指すため、英国の石工を呼ぶこととした。スコットランドの石工たちが来ると若いガーデナーと争いが起き、『朝の挨拶がない』『一緒に花火を見に行かない』などと、たわいもないことで喧嘩が起きた。8月の中旬、2つのグループの内、ガーデナーたちが突如英国に帰っていった。植物も無く、する事が無いのでやむを得なかった。そこで山田裕人はレンガを運んで手伝うこととなった。驚異的な事に彼らは他の食事を一切受け付けず、ビールとポテトチップスだけで何週間も過ごした。しかし、レンガと石の組み合わせは最高のクオリティで成し遂げた。

バラクラヒストリー ~BARAKURA History~

【 バラクライングリッシュガーデンの誕生からこれまでのケイ山田とバラクラの歩み 】