①創業者 山田方平の素材への哲学

創業者山田方平(飯田市出身)は婦人帽子のデザイナーを目指し、成功を収め第二次世界大戦後には銀座で婦人帽子店を開いて、宮家に収めるまでに至った。その哲学は素材に文化があるというものだった。『帽子は小さい物であるけれど、世界中から優れた素材を集めたもの』
リヨンのシルクタフタ スイスのブレード パナマなど世界の一流素材から優れた婦人帽子が生み出されると語っていた。そして芸術的創造を目標にしたところから光和創芸という社名をつける。
 

②軽井沢の思い出 ケイ山田の幼少時代

同業者の妻禎子は北佐久の旧家の出身、東京生まれで舶来のレースの服を着て育った。 若いころ当時としては珍しい女性新聞記者になり、銀座を闊歩するなど活発なモダンガールだった。 戦後銀座も焼け野原となって、山田ファミリーは軽井沢に疎開。お花好きの少女ケイ山田のナチュラルな感性は軽井沢で育まれた。 軽井沢時代山田方平は得意の語学を生かして三笠ホテルを接収した進駐軍の将校クラブのマネージメントや宣教師の普及活動の手伝いをした。聖書を訳して勉強した苦学の人であった。その時宣教師から教わった料理がバラクラシチューである。 ケイ山田は軽井沢で幼少期、欧米的でカントリーな温かい家庭環境で過ごした。

③バラ色の暮し ファッションの誕生

家族が東京に戻って、ケイ山田はフラワーデザイナーの草分けとして活動を始めた。婦人帽子が廃れて婦人服がファッションとして世の潮流となってきたため、母と娘ケイ山田が中心となってレースのフェミニンでロマンティックな服作りに挑んだ。親子3代のレースのテーストが好評を博した。バラ色の暮しブランドの誕生である。(1962年) ケイ山田は服飾デザインの推進役として中心となり、弟の山田裕人がビジネスに加わり、ブランドは全国百貨店に展開されることとなった。

④素材を仕入れる

山田裕人はN.Yのファッション工科大学の旭化成ニューヨークセミナーでファッションビジネスの国際的戦略の知識を得た。 そして、素材は文化という創業者の哲学から山田ファミリーは世界のレース産地を巡ることを思いついた。 繊維新聞の聖生氏、大丸の織田役員など親切な情報提供を受け周到にヨーロッパへ向け準備をすすめた。 同時にヨーロッパへはもう一つの目的があった。 新しいブランドがライフスタイルから生まれることを学んだ山田裕人は横浜そごうのバラ色の暮しショップオープンの際(1985年)ハーブを売り場に導入していた。 アパレルの売り場で生のハーブ苗をあつかうことは当時画期的であった。 ハーブ園(サンファーム、富田ファーム)を訪ね、人々が自然に触れて生き生きとして楽しむ様子を見て、リゾート地にブランドの根拠地を作りたいと考えるようになった。それを試すとしたら、ハーブガーデン以外の庭の形式で、ヨーロッパに庭の文化が他にないか実際に目で確かめたかった。 当時会社のあった原宿周辺で服作りをしても同質化するだけで個性が得られない。そこで先祖にゆかりのある蓼科に庭を作って根拠地にしよう。庭を作るなら文化的なバックボーンのあるものを探してみたいと山田裕人は考えた。

⑤ヨーロッパレースと庭の旅

家族4人でヨーロッパと英国へ向かった。 スイス サンガレン、ベルギー ブリュージュ、英国 ノッティンガム。ノッティンガムではコットンのチュールレースが生産されていた。 ヴィクトリア時代からの工場もあってケイの祖母が着ていたレースに近いものも見つかり、家族で興奮した。この後チュールレースを輸入し服作りが進んだ。 そこで素材の英国とのマッチングに確信を得た。 王立キューガーデンを訪ねて英国に庭園の文化があることをはっきりと認識した。ロンドンの街中にあったチェルシーフィジックガーデンで、ボランティアの出してくださったティーとスコーンを芝生にすわっていただいた時庭で楽しむ文化があることを感じた。 ケルムスコットマナーのウイリアムモリスの館を訪ねた時、モリスが庭を作ってテキスタイルのインスピレーションを得ていたことを知り家族全員が一致した。まさに理想とする姿がそこにあった。 英国の庭園文化を日本に紹介しよう。花の大好きなケイ山田が庭づくりの中心となることが話しあわれた。

⑥蓼科の地を選んだ理由

創業者の妻山田禎子の実家は江戸初期に蓼科山から水田作りの為の用水路を困難を乗り越えながら引いた家だった。先祖の小諸藩士、黒澤嘉兵衛の用水は蓼科山を源泉に寛文2年(1662)に竣工した。総延長88kmにおよび、10年の歳月と延べ10万人の人工を要した。北御牧村(現東御市)を含めて数ヶ村で用水路は350年たった今も使われ、八重原米はそのおいしさからブランド米になっている。山田裕人は母とともに幼いころより先祖の行事のため度々訪れていた八重原に郷愁があった。 蓼科山に縁がある地を選び、英国庭園を作ろうと決意した。そして偶然にもその地は英国と比較的気候が似ていた。英国庭園の特徴であるキンポウゲ科の植物の宝庫であったのだ。 山田裕人は数年かけていくつか候補地を見つけ、最終的に家族の同意を得て現在地を選んだ。 現在地を初めて訪れたときヨーロッパで見たハーブが咲いていた。

⑦木造3階建ての最初の建物 サミットハウス

土地を取得して最初に手掛けたことが先ず建物。 1986年5月中曽根首相による東京サミットが開催されレーガン大統領の来日を記念して北米木材の輸入推進のためサミットハウスが建設された。3階建ての現代的デザインの木造というコンセプトに惹かれ、一色建築事務所の納賀雄嗣先生に依頼した。1990年1月完成